ひとりごと

意味があったりなかったりします

実家の敷地に立派な梅の木がある。この時期は豊富な実をつけ、まるでシャインマスカットのような風貌をしている。思わず手でもぎ取って、そのまま口に含んでしまいたくなる。

木の下から見上げると、真っ青な空が広がり、ほんのり温かくも力強い太陽が照っている。そよ風が吹き抜けるたびに梅の木は音を立てて揺れ、悦びのダンスを踊っている。

 

家に梅の木があると知ったのはつい最近のことだ。近くを流れる川に沿って列をなすように堂々と根を張っているのは、栗の木の群れ。大将のような佇まいをしているから、見ようとしなくても記憶している。

3歳のときの私が映った写真の背後には栗の木があり、当時洗濯物を干していた場所の周りには栗の木があった。遊んでいた砂場の隣には栗の木があった。地面をみると落ちているのはハリネズミのような栗のイガばかり。

そのように敷地の地図を構成していたけれど、梅の木がある場所は、かつて砂場があったところのすぐ隣だ。黄色く熟した梅が、砂場にもぽとんと静かに落ちていたはず。

なんて梅は繊細で控えめなんだろう。それとも気づかなかった人が鈍感すぎるのかな。少なくとも30年以上も前から一歩も動かず、しかし確実に息をしていている梅の木は誰が植えたのだろう。

祖母は生前よく口が太いガラス瓶に神社からとってきた梅(当時神社が梅採り許可を出していた)をどっさり入れ、自家製梅ジュースを作っていた。我が家の梅の木のことは何も言っていなかった。そんなはずあるわけないと思うけれど、まさか祖母も知らなかったのだろうか。梅の木の謎は永遠に解けなさそう。

栗の木は曾祖父が植えたと聞いている。秋になると、中々籠に入らない玉入れのごとくぼとんぼとんと栗のイガが毎日降り落ちる。祖母、父、私、そして甥っ子たちが今でもその栗を食べている。

梅の木も、何も言わずとも毎年時期になると実をつけている。脚立に乗って大きな青梅を探していると、ふと小粒の一つと目が合った。その子は笑っていた。自然にできた可愛らしい傷が三つ。目と口になっていてニコニコマークだった。

梅の幹は、何百もの板チョコを無造作に重ねた上に粉砂糖を奮ったような形をしている。若々しさがなく、細身の腰の曲がった老人を連想させる。しかしその幹や枝に疑うことなくくっついた葉っぱや実は瑞々しく、弾けていきそうな未来を連想させる。

希望に溢れた青梅の実は、収穫する際決して手から離すことがないように、大切に扱っていこうと優しく掌を握っていた。

 

2022.5.10