消音でもなく小音でもなく少音
現在午後3時。8畳の和室の隅に置いてある座椅子に寄りかかり、だらんと脚を伸ばしてポツポツとスマホを打っている。木目調の大きなローテーブルが視界に入り、左前方には、畳の上に寝転んでスマホをいじっている父がいる。
左の大きな戸から吹き込む風が気持ちいい。
右側のガラス戸も開け放ち、狭い廊下を挟んで南側の広い和室まで、風が通り抜けている。
小鳥の高くもやわらかい鳴き声が、朝から絶え間なく聴こえてくる。草が掠れる音や木々の葉がわさわさと揺れる音も耳に馴染んで心地いい。
祝日の昼間で隣の神社は観光客で賑わっているというのに、それでも家の中にいる私には自然の音しか聴こえない。風の音が主旋律で、車の走る音やドアを閉める音は、ときたま登場する装飾音。人の声は耳を澄ましても聴こえない。
東京のような都会では、音を聴きすぎているような気がする。
都内に住んでいれば、実家の田舎が夢のようだと思い、こうして実家にいると東京は夢のようだと感じる。
人間は環境に適応能力が高い生き物だとつくづく感じる。帰省するまで考えていたことやたくさんあったはずの悩みが全く出てこないんだから。重い鉛のようなものを飲み込み、その身体で行動していた人間が、いる場所を変えただけで鉛が溶けて消えてしまった。
自然の力がそうさせているのかもしれない、田舎で、尚且つ故郷でもあり、懐かしさを感じるからそうさせているのかもしれない。そう思っていたときもあったけれど、それだけだと都内に住むとすぐに慢性的に溺れた状態になるなぁと思っていた。
今感じている、特有の安心感の正体は何なのだろう。その一つに「頼ることができる状態」というものがあるかもしれないと思った。
住んでいるときに困ったら同居人に頼る。外に出て困ったら隣の家に頼る。社会に出たら人に頼る。「頼れる人がいたら安心」という考えじゃなくて、頼れる人がいるという前提(たとえ隣の人と話したことがなくても)で、「頼れる人がいるから安心」という考えが、安心を与えるのではないかなと思った。
もう一つは、過剰に聴きすぎている音を減らすことが大切なことなのかもと感じた。
人が多い場所ほど人工的な音は多い。音の数が増えるほど、大きな音が強くなる。自然の音は場所を問わずどこにでもあるはずだけれど、都会で人口が密集している場所であるほど、掻き消され聴こえなくなっている。自然の音はとても繊細で小さな音だから。
人工的な音を極力聴かず、自然の音を浮き立たせるようにして都会で過ごせるようになると、特にやるこもなく、ただただ時間が過ぎていっただけで、幸福感をもつことができるのだろう。時間の経過を肌で感じているだけで十分だということ。
意識を向けているものが考え過ぎてしまう脳ではなく、それ以外の身体の部位となったとき、深く呼吸し脱力できている自分に気がつくだろう。
今の心地いい感覚を言葉にしようと考えてみるも、なんと表現したらいいかわからない。
変わらずそよ風が窓から入ってきて、季節外れのホトトギスの鳴き声が他の小鳥たちの音と調和して、私の耳に溶け込んでいく。
2022.5.4